(2020年1月29日 アルツハイマー型認知症の診断から約12年11ヶ月)
*75年前の夜に…。
今回の記事は完全なる番外編です。
私は現在、75年前の東京大空襲で被害が多かった地域に住んでいます。
でも、75年も経ちますと当然の事ですが、昭和20年3月10日の痕跡は見かけません。
東京大空襲とは…。
総務省の下記サイトに次のような文があります。
「 昭和20(1945)年3月10日未明、現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った。東京大空襲と呼ばれるこの空襲は、夜間に住宅の密集地を目標にして、約1700トンもの焼夷弾を投下し、根こそぎ焼き尽くすというものであった。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_25.html
私は生まれも育ちも東京ですが、戦後生まれです。勿論、実体験はありません。ジジもおママも3月10日の空襲では被害を受けいないので、私にとって東京大空襲は知識の範囲を出ませんでした。
しかし、20年以上も前になりますが、ダンナの祖母から実体験を聞いてから関心を持つようになりました。
東京大空襲から75年。風化していく昨今を思うと、どうしてもこの時期には番外編としてブログで取り上げていきたい。
その思いから、昨年は台東区、墨田区、江東区を猛火で襲った焼夷弾について考察してみました。↓
今年は浅草寺の戦災樹木を訪ねてみました。
*いざ、浅草❗️
今回2月後半から3回に分けて浅草寺に出かけ、時間を変えて写真撮影をしました。
今はコロナウイルスによる新型肺炎(COVID-19)の影響で、浅草周辺はとても人出が少なかった❗️
いつもからは想像もつかないほど境内は閑散としていましたから、撮影は楽かと思っていました。しかし広い境内の中で戦災樹木の木肌の痕跡を鮮明に撮影するには、光の加減や向きが難しくて、写真下手の私にはなかなか良い写真が撮れませんでした。(^◇^;) 言い訳です。
普段は観光客で賑わう浅草。
仲見世も境内も外国人観光客だけでなく多くの人が訪れます。
でも、どれだけの人が75年前の3月10日の未明に起きた事を知っているのでしょうか。
東京大空襲の時 浅草寺の境内は焼夷弾で本堂(観音堂)、五重塔、宝蔵門が焼失しました。しかし、舐めるように炎が回ったというわけではなく、風向きによって浅草神社、二天門、本坊である伝法院、北側の浅草寺病院は焼け残りました。
境内にはイチョウの木が多く、幹が太いものは殆ど空襲に遭っていると思います。それでも風向きによっては炎に襲われなかった木もあります。
戦災樹木の周囲に腰掛けて、楽しそうに語らったり、アイスクリームを食べている若い人達の姿には、とても平和を感じて微笑ましい。
ただ、出来る事なら、
すぐ後ろの大樹に残る深い空襲の痕跡に気がついてくれたらなぁと思います。
でも、仕方ないですね…。
私も知ったのは20年くらい前のことですし、若い頃は関心も持たなかったでしょう。
*戦災樹木を探す
境内を廻って、戦災樹木を探す時、ポイントがあります。
イチョウの木の幹はゴツゴツとした木肌をしています。ところが炎がまわって焼け爛れると、この本来の外皮がツルツルになってしまいます。その部分は炭化した状態になったまま、歳月が経ってもずっと跡を留めているのです。
例えばこんな感じです。↓
これは太い一本のイチョウの幹です。この樹木は南側だけ焼けたそうです。裂けたような痕跡が焼夷弾の威力を感じさせます。上の写真では、左右の木肌と真ん中部分ではテクスチャーが全く違います。左右は ゴツゴツ。真ん中はツルッと平面的。
この記事では、
私が参考にしてた本や、他の方のHPで「戦災樹木」として扱っている大イチョウを4本写真でご紹介します。
その他にも境内を歩いていて、私が「これは焼夷弾の跡では?」と思ったイチョウについては忘備録的に下記の境内図に位置だけ記しておきました。
浅草寺の戦災樹木は焼夷弾を浴びて、幹の中に大きな焦げたうろを抱えたり、裂けて幹が割れたりしていますが、今も元気で生きています。この季節は葉もなく痛々しい姿をあらわにしていますが、毎年芽を吹き葉を茂らせます。
本当だったら、通年通しての様子を撮影しておけばよかった。
そんな心残りはありますが、それは今後の課題としたいです。(^◇^;)言い訳です。
参考にさせて頂きました。↓
≪参考文献≫
おママが1998年にお友達から頂いた本。東京の戦災樹木や石造物などを記録しています。
20年前にこの本をおママから借りて読み、初めて戦災樹木について知りました。
『戦災の跡を訪ねて ー東京を歩くー』
編著者 長崎誠三
出版年 1998年7月
発行者 長崎誠三 発行元 株式会社 アグネ
*戦災樹木の写真
① 戦災公孫樹
樹齢800年とも言われる御神木です。源頼朝が浅草寺参詣の折に挿した枝から発芽したと伝承されています。昭和5年に天然記念物に指定されましたが、東京大空襲で焼けたため取り消されました。しかし、現在も元気です。
上から降ってきた焼夷弾を浴びたのでしょう。上から下まで被害が大きくて焦げた跡も痛々しい。幹は裂けたり、うろができています。しかし、それでも生き続けて大きく枝を広げる姿はまさに御神木というにふさわしい尊さを感じました。
↑全体の姿、五重塔の方からの眺め
↑交番(派出所)の方から撮影
↑上部の被害
↑幹の隙間から五重塔が見えています。
こちらも太い幹に焼夷弾の痕跡が残っています。幹の南側の面と反対側では全く表情が違い、上記の写真のように、焼けた外皮と焼けなかった部分の対比がはっきりみられます。
向きを変えて↓
樹齢600年かとも言われる大銀杏です。昭和5年に天然記念物に指定されましたが、戦災公孫樹と同様、東京大空襲で焼けたため戦後になって指定を外されました。
幹に上の方に被害が顕著。そうですよね。焼夷弾は情け容赦なく上から降ってきたのですから。
このイチョウには伝承があるそうです。
上記の参考サイトからの引用です。↓
「 この銀杏は、『水吹き銀杏』と呼ばれていて、観音堂に火が燃え広がったときに、銀杏の木がチューと水を吹き出して観音堂を守ろうとしたという言い伝えが残っている。」
④二尊仏の裏手のイチョウ
焦げた大きなうろがあります。
↑幹の内部はほとんど焦げたうろ。
近くで見てみると…。
*撮影を通して思ったこと
私はこれまで、上記参考文献やインターネットで写真を見てきました。
そして、何気なく四季を通じて浅草寺に参詣した事があります。しかし、改めて今回戦災樹木の前に立った時、 驚きと感動に包まれました。
本堂も、現在とは位置が違っていた五重塔も、焼夷弾によって焼失しました。
人の造ったものは失われても再建することができますが、自然は破壊されたら戻りません。
しかし、焼け爛れた自然の樹木が、その身体のまま生きているのです。それは戦災の生き証人とも言えます。そして、空襲の夜からの時間軸が、確実に75年後の今に繋がっている事を実感させられました。
戦災樹木は全国各地で空襲のあった地域の寺社仏閣などに、意外と残っているのかも知れないと思いました。
上記の参考文献は東京限定ですが浅草寺だけでなく多くの戦災樹木を調査、紹介しています。しかし、出版から20年以上が経っているので、現状を見て歩いてみたいです。
戦争の体験者が年々少なくなる現状を思えば、戦災樹木を大切に保存して語り継いでいくことが重要だと思いました。
今回写真撮影をしたのは葉のない季節です。
葉が生茂り、生き生きとした戦災樹木をを撮影できなかった代わりに、写真などの資料を見ながら戦災公孫樹のイラストを描き、葉をつけてみたいと思っていました。
しかし先週の土曜日7日の晩から、私ときたら偏頭痛の前兆現象と狭心症の軽い発作(すぐ治りました)に見舞われ、体調は絶不調。
「もう、イラストは諦めるわ…。」
と泣き言を言ったら、娘のアズキが「描きましょうか」と言ってくれました。
私の撮った写真と浅草寺の公式HPの写真を元に、アズキが仕上げてくれたのがこちらです。↓
戦時中の体験も空襲も、おママから殆ど聞けなかったアズキ。
20代のイマジネーションで、東京大空襲と戦災樹木を考えながら描きました。
このイラストを見て、私はほんの少しですが歴史の継承ができたような気がします。
今週は体調不良につき、更新が滞ると思います。読者登録をさせていただいているブログへの訪問も難しいかも知れません。すぐ復活しますので、また、よろしくお願いいたします。
*本日アップの貼り絵
↓こちらの冊子の表紙を使いました。
過去にもおママは貼り絵に使っているので、この冊子は何冊かあったのかもしれません。
↓切ってるぞ。
↓ お馴染みのティーパックも使っています。
おママの貼り絵を見てくださり、ありがとうございます。