アルツハイマーとともに〜おママの貼り絵日記〜

アルツハイマーの母(おママ)が作った貼り絵と暮らしを紹介しております。

コロナのおかげで…、在宅で看取るということ

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(2020年4月27日 アルツハイマー認知症の診断から約13年2ヶ月)

 本日はベラボーに長文です。しかも人の生き死にに関わる話です。ご不快な点もあると思います。

殆ど私の心の整理のために書いた文です。下の方に浅草の写真やおママの制作途中写真があるので、そこまでスルーして下さる方が良いかも知れません。m(_ _)m

 

在宅でなんて…ムリ…。

今回の記事のサブタイトルは「在宅で看取るということ」ですが、私たち家族にはそんな覚悟も心構えもありませんでした。

もし、コロナのせいで面会できない問題がなければ、5月末の病院再開と同時に入院をしていただろうと思います。

 

我が家とクレバァの家は歩いてすぐの距離ですが、住まいは別です。義姉の家は埼玉ですから、クレバァは義父が亡くなってからは一人暮らしでした。

 

ダンナ

「いくら本人が在宅を望んでも、家族ではうまく対処できなかったりするし、病院に入ったほうが本人のためだよ。」

義姉

「ひとりでトイレに行けなくなったら入院なんでしょう。私は実の親でも下の世話はしたくないわ。」

2人はそういうスタンスでした。

そして、私はクレバァの身に急激な下血や吐血があるのをひたすら恐れていました。きっと私の事だから、パニックになりそうです。

娘のアズキは、ただ日々刻々と衰えていくクレバァの病状を注視しているだけでした。

 

そんなヘタレな連中でしたが、なんとかクレバァを在宅で看取れたのは、常に緩和ケアの主治医にコンタクトの取れる訪問看護サービスと、往診の体制が整っていたからです。

 

往診と訪問介護

実に恵まれた環境だったと思います。

訪問看護ステーションはクレバァの家から3分くらいの所にあり、週3回、4名の看護師さんがローテーションで来てくださいました。

 

週3回の丸山ワクチンの注射だけでなく、「Kチューブ」を使ってクレバァの脚の浮腫(むくみ)の対策やマッサージ。身体をきれいに拭いたり、ベッドで寝たまま洗髪もしていただきました。

常に、体調や薬の服用などの相談にも乗ってもらえ、終盤にはオムツ交換だけでなく、主治医に相談の上、必要に応じて潅腸や導尿カテーテルの処置をしてくれました。

 

クレバァは体調が優れなくなってきた4月の半ばから入浴を敬遠していました。

シャワーチェアも購入したので、看護師さん達は自宅のお風呂で入浴介助やシャワーでの洗浄を提案してくれましたが、本人はこれを嫌がりました。

最終的には看護師さんの勧めもあり、ケアマネージャーさん経由で訪問入浴をお願いしました。嫌がっていた割には、これはとても気持ち良かったそうです。

 

メンタル面でも 看護師さん達はクレバァに寄り添ってくれて、本当にありがたかったです。

「入院したくないのに…。」

 そんなクレバァの嘆きに対して、看護師さんは言いました。

「クレバァさんが『入院したくない』と、しっかりとした意思表示をしているのに、誰も勝手に入院なんてさせられないんですよ。私達看護師でも、たとえお医者さんでもです。」

「そうなのね…。」

それを聞いた時、クレバァは目を輝かせて微笑を浮かべたのです。

その時、私も腹を括りました。

 

私はそれほど下の世話に抵抗はありません。

まだ少女の頃、実家は在宅で祖母を看ていましたから、おママがオムツ替えをしていたのを見ています。見ていたから出来るというわけではありませんが、やっていれば慣れるだろうと思いました。

ただ、私が恐れていた突発的な下血、吐血の場合、どのようにしたらいいかです。体力も落ちて衰弱した状態で起きたら、まず助からない可能性の方が濃厚です。

「そのようなことになったら、まず救急車ではなく、直ぐに訪問看護ステーションに電話を下さい。たとえ深夜でも対応します。」

その看護師さんの言葉を聞いて、私は大船に乗った気になりました。

 

主治医の往診は週1回でした。

先生はクレバァを診察して、薬の変更したり、家族だけには詳しい病状を説明して下さいました。しかし、クレバァにとって、往診の時はある種の発表会だったのでしょう。

 

先生の考える入院を判断する目安は

「家庭ではもう難しくなったと思われる時期、1つの目安はご自分で御手洗いに行く体力がなくなってしまった時です」

と言われています。

harienikki.hatenablog.com

だから先生が見えた時に、クレバァは、わざわざトイレに行くのでした。

最初の往診の時(5月21日)は杖をつき、ゆっくり時間をかけながらもクリア。

2度目(5月28日)はレンタルで設置したばかりの手摺(廊下とトイレ)に縋り付きながらもクリア。先生の前では気丈に振る舞うクレバァでした。

しかし、この2度目の往診が先生の考える入院の時期だったのだと思います。

先生はクレバァ自身の意思を確認されました。

「入院はどうされますか?」

「イヤです。」

すると一緒にみえた訪問看護ステーションの看護師さんがキッパリ言いました。

「先生、この通り御本人は在宅がご希望です。ご家族はとても協力的で手摺やポータブルトイレも入れて、夜もどなたか必ず付き添っていらっしゃいます。」

「そうですね。ご本人もご家族と一緒がいいですね。入院しても、あまりいいことはありませんし。」

しかし、この日の帰り際に先生は私とダンナに仰いました。

「食べられなくなってきたようですから、来週、伺う時には、もう寝たきりになっていても不思議はありません。」

私も覚悟が決まりました。

 

この日を境に主治医と訪問看護師さん達は「本人の意思を尊重して、最後までクレバァを在宅で看病する」という方針を固めたようです。なぜかというと、サポート体制が手厚くなったからです。

浮腫んで重くなったクレバァの身体は大変重く、しかもそれを支える力はクレバァ自身にはありません。導尿カテーテルが付いてからは、お小水は問題ありませんが、食べていなくても、カスのような便は溜まって吐き気を誘発するそうです。自然に出せなければ、日に一度は摘便もした方が良いとの事。

「オムツ替えが奥さん(チャーコのこと)のご負担になるようなら、訪問看護の回数を増やして、毎日午前中1回は私たちがやりますよ。」

私は迷わず「毎日お願いします」と答えました。

そうです。ケアマネさんだって、訪問看護だけで足りなければヘルパーさんを頼む手もある」って言っていたし、なんとか在宅でいけるかもしれない。そんな風に思えてきました。

 

ローテーション

 5月26日火曜日以降、クレバァは1日の中で何回か吐き気にみまわれるようになりました。痛みが強くなって、夜中にも適宜に鎮痛剤を飲ませる必要もありました。しかも相変わらず、夜は何度か杖をつきながらトイレに行くのです。そのため夜中も誰かが必ず見守ることにしました。

最初は私がやっていたのです。でも、すぐに義姉とダンナがローテーションに入ってくれたので助かりました。

 

義姉は仕事もあり、その他にもサークル活動もあり、普段は忙しく飛び回っています。

それが今年はコロナ(COVID−19)の影響でそれらの予定が全てキャンセルになったとか…。図らずもコロナのおかげで義姉の手を借りられたのは良かったです…。

コロナ禍で良かった事なんてあるんですね…。(^◇^;)

 

しかしながら、泊まり込みをやって2度3度となると(いやまだ、たったの数度ですよ‼️)ダンナも義姉もお疲れのようでした。確かに疲れますが、だからと言って、本人の嫌がる入院を主張するのも如何なものか…。

 

上記の2度目の往診の日(5月28日)以降、クレバァが1日に食べられたのは朝夕のみお粥2サジ、調子が良ければメイバランス半分でした。

心配は心配だけど、自然と食を受け付けなくなり、貼り薬のフェントステープで痛みを緩和しながら徐々にダウンしていく。

もう、自宅で緩和ケアをやっているのです。もはや入院させる意味もない。

 

それに、2人の言い分はクレバァの為を思っての発言ではありませんでした。

ダンナは

「チャーコの体調が心配だから、もう入院させた方がいい。」

義姉は、

「チャーコさんが倒れたらいけないから、もうお母さんには入院してもらおう、もしも(チャーコが)病気になってアズキからお母さんを奪うことになったらかわいそうだわ。」

 

いえいえ、違うでしょう。

私のために自分の母親を入院させるんですか?

私のせいですか‼️

アズキだって25歳ですよ。子供じゃないんだから…。

入院したが最後、今生の別れなんですよーーーー‼️

実の母親が日に日に衰弱していくのを見るのが忍びないのかも知れませんが、

2人とも私の為とか言いなさんな‼️

はっきりと、自分達がもうギブアップだからと認めたらどうなのよ‼️

 

私は無性に腹が立ってきました。

訪問看護を更に充実させて、在宅介護の体制は整いつつあるのです。今更なんなの。

状況をちゃんと見てよ。

だから、私は泣き落としにかけようと思いました。

 

「至らないお世話ですけど、ここまでやってきて、情が移ったと言うか…。入院させるのは嫌です。そんな事をしたら、私は一生、後悔します。罪の意識に苛まれるから嫌です。」

 

「ありがとう❗️チャーコさん。そこまで思ってくれて、お母さんもきっと喜んでいるわ。でも、もうこれ以上はムリよ。次の木曜日に先生が往診に見えたら必ず入院を頼みましょうね。」

 

ダメだこりゃ…。

「どうしても入院させたいなら2人で義母さんを説得してくださいね。」

「…………。」

 

予言者

5月30日土曜日。

この頃のクレバァは、もう1日の大半を眠っているような状態でした。

血中酸素濃度も91%くらいになりました。しかし、酸素吸入を勧められても、クレバァは拒否しました。

 

でも、この日は昼にアズキの彼氏が会いに来るので、朝からメイバランスを半分の飲むことが出来ました。そして、お待ちかねの彼氏がやってくると、

「我がままな子ですけど、よろしくね」

などと気さくに話していたそうです。

彼氏が帰ってから、クレバァは私にしみじみと言ったのです。

「後、5日くらいかしらね。」

「何がですか?」

「お迎えがよ…。」

「いくらなんでも、後5日間と言うことはありませんよ。もっと先です。」

「後、5日くらいだと思うわよ。」

 

クレバァは弱気になったようにも思えますが、まだまだ強気も残っていました。

亡くなる2日前の夕方、仕事を終えたアズキが見舞いに来た時に、上機嫌になったクレバァは私に言いました。

「トイレをするわ。」

「おしっこは管に流れるんでする必要はありませんよ。ウンチですか?」

「そう!」

誰だって最後まで自分でトイレに行きたいのです。私は情にほだされて、ついついOKしてしまいました。「よっこらしょ」とクレバァを抱きかかえてみたら、

なんと重いのでしょう。

ベットに接して置いたポータブルトイレへの往きは良い良いですが、綺麗に拭いてあげる事もできず、果てはベットの縁に置いていたオムツの所まで戻ることが出来ませんでした。

しかもベッドに倒れ込んだクレバァは柵に頭をぶつけるという2次被害を蒙りました。

アズキと2人がかりでしたが、ニッチもサッチも身動きが取れなくなり、結局訪問看護師ステーションに助けを求めることになりました。私の安易な判断が結果的にクレバァの苦痛を増やしてしまったという…、本当に情けなかったです。

 

家族に見守られて

土曜日の翌日から起算して、日、月、火、水、木。

6月4日木曜日はクレバァが予言した日です。

 

朝からクレバァは口を開けて重く激しい呼吸をしていました。それはぐわっぐわっと音を立てている呼吸です。

目はすでに瞬き見せずに開いたまま宙を見つめて、誰が声をかけても反応しませんでした。

急ぎ、訪問看護ステーションに電話をすると直ぐに2名体制で来て下さいました。

血中酸素濃度は90%を切り、丸山ワクチンを注射して、下の洗浄、身体拭き、浮腫対策のマッサージだけして、もう「Kチューブ」はつけませんでした。

「「Kチューブ」はもう良いのですか。」

「もう良いと思います。それから、この状態になると、水を飲ませるのもかえって危険です。今日は娘さん(義姉)はいらっしゃるのですか?」

「はい、午前中には着くと思います。」

「良かったです…。何かありましたら、すぐに連絡ください。直ぐに参ります。」

私には分かりました。もう浮腫対策の弾性包帯で圧迫するより楽にしていた方が良いのでしょう。

(クレバァ…、予言通り、今日なんだね…。)

私は一瞬気が遠くなりました。

 

この日は3度目の主治医の往診日。

先生は既に看護師さんから状態を聞いていたのでしょう。聴診器で心臓、肺を確認しました。

「もう心臓もだいぶ弱っています。肺も動きが弱くなっていて、気管のあたりを中心に呼吸をしているような状態です。もう、このまま、静かに見守ってあげて下さい。ご家族にとって、大変な時期は過ぎてしまいましたし、この先ご家族が恐れていた事態(吐血下血)もありません。呼吸はこの先、徐々に浅くなったり、乱れてくると、段々に止まっていきます。」

義姉は相変わらずだわ。

「先生、入院は?」

「もう、入院する意味がないです。受け入れても良いのですが、今動かして御本人に負担をかけるのも忍びない…。それよりご家族で安らかに見送って頂いた方が良いと思います。私はその時が今夜でも驚きません。」

「先生、フェントステープは決められた時間には貼り替えた方が良いですか?」

「他のお薬は要りませんが、テープだけは貼り替えて下さい。」

「瞬きもしないこの状態ですが、本人は意識があるのでしょうか?」

「意識があるとはいえませんが、音は最後まで聞こえると言われています。お声を掛けて、手などさすって差し上げて下さい。その方がご安心だと思います。呼吸が止まったかなと思ったら、訪問看護ステーションに連絡ください、私も遅れるとは思いますが、また来ますから。本当に御家族で良くお世話をされたと思います。」

 

先生を見送った後、

何を思ったのか?

ダンナと義姉は2階のリビングに行ってしまい、どうやら休憩タイムのようです。

それで、私がクレバァの側で先生のお話をノートに纏めていると、時折、激しい声の様な息遣いがありました。

「お義母さん!安心して、みんないるよ。ここにいるから、1人じゃないよ。」

何度か声をかけ続けていますと、少し呼吸が浅くなっ来ました。私は階段下から叫んで2人を呼び、直ぐに家に帰ってリモートワーク中のアズキを連れてきました。

実の子供達と孫に囲まれて、クレバァは静かに息を引き取りました。

 

駆けつけた訪問看護師さん達によって呼吸と心臓が停止しているのが確認されて、後は主治医が死亡を確認するだけなのですが、往診中なので直ぐには来られないとの事。

それまでの間に、クレバァは身体を綺麗にしてもらいました。3週間ほどの事でしたが、クレバァは看護師さん達をとても信頼していました。最後にその方達に身体や髪の毛を綺麗にしてもらいホッとした事でしょう。私も身体を支えたり、温かいおしぼりを作ったり、いつもの様にお手伝いをしました。

髪の毛をドライヤーで乾かしている時、看護師さんが声を上げました。

「あら!クレバァさんったら❗️

ねぇ、見て見て。ほら❗️にっこり笑ってるわ。」

気持ちよさそうに微笑んでいるクレバァを見て、私も久しぶりに肩の荷が降りて、

少しだけ涙が出ました。

 

後日、娘のアズキがしみじみ言いました。

「コロナのおかげでリモートワークだったから、私はおばあちゃんの死に目に会えたんだね…。」

コロナに翻弄されたクレバァの闘病でしたが、最後はこれで良かったのだと、

私は確信しています。

 

浅草散歩

この御時世ですから、お葬式も簡略にしました。納棺士さんは頼みましたが、斎場では火葬のみを行い、お骨を持って菩提寺に行き、お坊さんにお経を上げてもらって終わりです。参列したのもダンナ、私、アズキと義姉夫婦のみ。

 

お葬式前日には義姉への会葬御礼を浅草の松屋に買いに行きました。

なんだか、久しぶりの浅草散歩です。クレバァは生まれも育ちも台東区。浅草界隈は子供の頃から良く出かけた事でしょう。

供養になるかも知れないから、写真をパチリ。

 

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 (↑)浅草寺本堂から境内を臨む。私の好きな風景です。

 

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 (↑)青々と葉を繁らせた戦災公孫樹。3月にアズキが想像で繁らせたイラストと似ていました。今年も浅草寺の戦災樹木は元気です。(^。^)

因みにクレバァは東京大空襲の時は群馬に疎開をしておりました。

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harienikki.hatenablog.com

 

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 (↑)私にとって浅草の街といえばこの風景。松屋デパートから見た東武線の高架。江戸通りの上を電車が走るのです。(^O^)

 

本日アップの貼り絵

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おママの貼り絵を見てくださり、ありがとうございます。