(2021年2月12日 アルツハイマー型認知症の診断から約14年)
*鎮魂の日
2011年3月11日は忘れもしない東日本大震災の日です。
私自身、その日は実家で強い地震に遭いました。築80年を超える木造家屋の家がミシミシ、バシバシと音をたてて揺さぶられたのです。これは家が崩壊しジジとおママと一緒に死ぬのだと、私は覚悟を決めました。幸い家族も家屋も無事でしたが、あの日に体感した激しい揺れは今だに私の身体に燻っているような気がします。
10年。
早かったでしょうか?長かったでしょうか?
私にはあっという間でした。
あの日、亡くなった多くの方々のご冥福をお祈りいたします。
そして私にとって3月はもう一つの鎮魂の日があります。
*東京大空襲を知っていますか?
1945年3月10日は東京大空襲のあった日です。
私は現在この空襲で甚大な被害を受けた地域に住んでいます。
戦後50年をを過ぎて、義祖母から東京大空襲の体験談を聞く事ができたのは、自分の財産だと思っています。
終戦から76年。東京でも報道は殆どありません。
東京は3月10日の下町地域を中心とした大空襲だけでなく、1944年11月から終戦まで、東部地域、西部地域と押し並べて米軍の空襲がありました。1945年5月24日25日の山手地区への空襲も大きな被害がありました。(Wikipedia「東京大空襲」より)
その中でも、やはり3月10日の大空襲はとてつもなかった…。
二度と戦争をしないためにも、東京大空襲の惨禍は話題にして語り継ぐべきです。
風化させてはいけないと思います。
この空襲について、私が一番簡潔で分かりやすい説明と思うのは、次の文章だと思います。
「 昭和20(1945)年3月10日未明、現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った。東京大空襲と呼ばれるこの空襲は、夜間に住宅の密集地を目標にして、約1700トンもの焼夷弾を投下し、根こそぎ焼き尽くすというものであった。」
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_25.html
午前0時7分から2時間ほど続いた空襲で、どうして10万人が焼き殺されたのだろう、そんな疑問もあって、私は一昨年「焼夷弾」について調べてみました。
焼夷弾とは焼夷剤(発火性薬剤)を装填した爆弾です。その焼夷剤は油脂だったので消火しづらく、しかも落下した後で激しく炸裂し、広範囲に油脂を含んだ火力の強い焔が飛び散ります。木造家屋を効率よく、広範囲に焼き尽くす事ができる爆弾でした。
これを約1700 トンも落とされたら…。四方八方火の海となり、人々は逃げ場を失うでしょう。台東区、墨田区、江東区は焦土と化し、一晩で死者・行方不明者が約10万人は妥当な数字なのだと納得しました。
昨年はそれを踏まえて、浅草寺の戦災樹木を探しながら、空襲の恐ろしさを考えてみました。
今年は言問橋を尋ねました。
*言問橋(ことといばし)について
長さ 236.6m
幅 22.0m
開通年月 昭和3年2月10日 関東大震災復興事業として新設された橋である。
型式 3径間三大鋼ゲルバー鈑桁橋
(↓)下記サイトを参考にしました。
今も昔も、言問橋は大きな橋です。
(↓)関東大震災の復興事業として建造された言問橋。その完成までの経過を87枚の写真で見る事ができます。こちらはそのインデックス。昭和初期にいかにして大きな言問橋が出来たか、ご興味のある方は是非ご覧ください。
(↓)中央の親柱と欄干の写真
(↓)昭和3年9月11日に撮影された完成後の言問橋。
当時とても大きくて頑丈で立派な橋であった事がうかがえる写真です。
これらの事を踏まえて、東京大空襲の夜を考えてみます。
1945年3月10日未明より米軍のB29による絨毯爆撃が始まりました。
焼夷弾の性質上、消火は難しく瞬く間に当時の浅草区、深川区、本所区、城東区は火の海となりました。火焔のなか、人々は必死に逃げ場を探しました。
当時の下町は運河が多く、大小数多の橋では、両方の橋の袂から逃げ惑う人々が殺到して大混乱となったでしょう。
隅田川を渡す橋の上も、同じ状況だったと思います。
隅田川周辺の多くの人は、劫火に追われて川を目指し始めました。
火は川で止まるだろう。だから向こう岸に渡れば助かるのではないか。
全員がそうとは限らないけど、極限状況に陥ると、そんな心理に突き動かされる人は多いのかも知れません。
言問橋はとても大きくて頑丈です。
あそこなら隅田川を渡って向こう岸に逃げられるのではないか。
そう考えても不思議ではありません。
一縷の望みを託して多くの人がどんどん橋の袂に殺到していきますが、頼みの向こう岸も同じ状況でした。
かくして、言問橋は両側から殺到してくる群衆がぶつかり合い、身動きが取れない状況になったといわれます。荷物を乗せた大八車もあったでしょうから、混雑してくれば、それも人々の通行を妨げました。
そしてあいにくの大風のため、火の粉が雨のように降り注ぐのです。荷物や衣服そして髪や防空頭巾に火が着き始めます。それが群衆全体にに燃え広がり、そのまま人々は炎にのみ込まれていきました。
橋の上全体が炎の海となり、阿鼻叫喚、さながら地獄絵図だったとの体験談もあります。
たとえ欄干から隅田川に飛び込めたとしても、後から飛び込んでくる人達に押しつぶされて大半は川の中で亡くなったといわれます。
一夜明けて火が収まってみれば、言問橋の上は累々たる焼死体の山で埋め尽くされていたそうです。その凄惨な有り様は、私には想像すらできません。
欄干の縁石は凄まじい炎と高熱で焼かれ、角が弾けて割れました。そして焼死した人々の血や脂で黒ずんだしみが残されました。
(↓)参考にさせていただきました。
1992年(平成4年)に言問橋は改修工事がありました。
その折に、東京大空襲の記憶を留める欄干とその縁石は撤去され、きれいに新設されました。(一部は江戸東京博物館へ)
でも、親柱は現在も竣工時のままです。
ネットで調べると、そこにも縁石と同じように黒ずんだ空襲の跡が残されているようです。
それで、私は鎮魂と戦争を容認しない誓いのもと、言問橋に出かけることにしました。
*言問橋の戦災遺構を訪ねて
私は近くに住んでいるのに、隅田川が苦手です。霊感とか全くないのですが、大空襲で多くの人が亡くなった事を知っているので、少し怖いのです。(^◇^;)
言問橋もそんな理由から敬遠していました。
いつもスカイツリータウンに行く時は吾妻橋を渡って墨田区側に入ります。
「意を決して❗️言問橋を渡り、すみだ郷土文化資料館の東京大空襲関連の展示を見てから、スカイツリーに買い物に行く❗️」
「そんなら、お供します❗️」
たまたま休日だったアズキが一緒に来てくれるのなら、メンタルが弱い私が途中で倒れても安心です。(えっ⁉️)
2月19日は快晴でした。引越しのためにクレバァの家を大掃除していた最中でしたが、少し気分転換のために出かけました。
①隅田公園
まず、スタート地点の隅田公園(台東区側)にある東京大空襲の慰霊碑に到着。
地理関係はこんな感じです。(↓)
「あゝ 東京大空襲 朋よやすらかに」
右の写真は1992年の改修工事で撤去した欄干の縁石です。
全体に黒ずんではいます。炎の高熱によって花崗岩の角が弾けて割れてしまった跡は、向かって左側の縁石の更に左側の辺なのです。展示の仕方を変えて欲しいです。これでは被害の状況が伝わりません。( ̄◇ ̄;)
②いざ、言問橋‼️
言問橋はとても幅が広く大きく感じました。
渡り始めてすぐに親柱がありました。何気なく通り過ぎれば、何も気が付かないでしょう。でも、高熱にさらされ石の表面が荒れて割れたような跡もあります。そして、下の方は黒ずんでいました。これが焼死した多くの方々の血や体脂の跡と思うと胸が詰まりました。
合掌。アズキ、言葉も出ない…。
(↓)浅草側から墨田区を臨む。
大空襲の晩に炎に追われて、必死に対岸を目指した人々の事を憶うと、
この青空が悲しい。(T_T)
言問橋を渡ってみて思いました。
この広くて長い橋の上で、身動きが取れないほど人が密集してしまう状況を想像すると恐ろしいです。
両岸からどんどんひとが押し寄せれば、たとえ火の粉が降り掛からなくても、将棋倒しになったり集団パニックで、どのような事態になったかわかりません。
「これはヤベェ…。想像がつかない…。」
実際、東京大空襲の日に、言問橋の死者数は定かではありません。
5000人?1万人?でも広くて長い言問橋です。もっとずっと多いのではないかと思いました。
言問橋を渡り切ると、墨田区側の隅田公園では白梅が咲いていました。
きっと、1945年の3月初旬も梅が咲いていたのでしょうね…。
佇むアズキ。(↓)
③すみだ郷土文化資料館
そして、私達はすみだ郷土文化資料館で「企画展 東京大空襲 ー被害の詳細と痕跡ー」を観ました。
地図の展示が興味深かったです。特に「東京大空襲 いのちの被災地図」はアズキも見入っていました。
これは1951(昭和26年)年から1955年(昭和30年)にかけて、東京都と(現公益財団法人)東京都慰霊協会が作成した『霊名簿』をもとに作成されました。
『霊名簿』は空襲で亡くなった約3万人の情報が記録されています。
「東京大空襲 いのちの被災地図」は亡くなった方々の居住地と遭難地を直線で結んで地図上に描いています。
「今住んでいるところの人達は、こっちに逃げていたのか…。」
でも、そこで亡くなったと思うと忍びない。
若いアズキが興味を持って見てくれて嬉しいです。
そのほか、大空襲の体験者が描いた絵や体験記を読むと、より東京大空襲がリアルに追体験できた気がします。
鉄筋コンクリートの大きな建物は炎から守ってくれると考えた人々が押し寄せました。しかし、高熱でどこかの窓から炎が入れば、外観を残して内側は焼けてしまったとそうです。
「明治座は午前3時に…。」
「明治座も焼けて亡くなった人がいっぱいいたんだね…。」
5月9日までなので、ご興味のある方は是非❗️
館外展示の防火用水。(↓)
説明文の中にこんな1文があります。
「関東大震災の記憶を持つ母親の機転で、あらかじめ地域で決められていた避難所に避難せず、人の避難する方向と反対の場所に避難したため、一命を取りとめましたが、住居は全焼し、この防火用水だけが焼け跡に残りました。」
「これ、おばあちゃんが言っていた事と同じだ‼️」
おばあちゃんとは、今は亡きおママの母親です。関東大震災と静岡の空襲に遭いました。
「髪の毛はすぐ火の粉が着くのよ。だから火の中を逃げる時は濡らした手拭いかタオルで頭を包むといいのよ。それと大勢が逃げる方には行かずに、なるべく人のいない方に逃げないとダメなのよ。」
まざまざと祖母の言葉が蘇ってくるーーー。
集団心理でパニックが起きると、一箇所に避難民が殺到してしまう。
言問橋もそうだったかもしれません。
生き残るために必死で逃げるうちに、人の流れにのみ込まれてしまったとしたら、本当に気の毒です。無念だったと思います。(T_T)
極限状況の中で、どのように行動するか。これが生死を分けることもある。
教訓としていきたいです。
(↓)すみだ郷土文化資料館の外で撮影したスカイツリー。大きいね。
④江戸東京博物館の屋外展示
国技館の隣にある江戸東京博物館の屋外展示で、当時の言問橋の欄干と縁石の一部が見られると知り、後日出掛けてみました。
裏の駐車場の方です…。(^◇^;)
入館料を払わなくても見ることは出来ました。
高熱で角が弾けて割れた状態がよく見えます。
これは言問橋の悲劇を今に語る戦災遺物です。
展示の仕方や場所には言いたい事はありますが、まずは展示してくれて良かったです。
江戸東京博物館へ行く機会がありましたら、是非、裏の駐車場の歩道に足を運んでくださいませ。位置的には、真向かいに日大一高が見えました。
本当に長くなって申し訳ありません。
読んでくださって、ありがとうございます。
*本日アップの貼り絵
未来に繋ぐ橋のように見えたので、今日はこの貼り絵を選びました
元はこの「お題」だったと思います。
4日後に私が実家へ行ってみると、おママは(↑)の「お題」を2つに分けて、既に加工済みでした。(↓)
(↓)「どうしようかしらね。」
おママは大きくドンと斜めに張ってしまいました。
「これだけでも面白いし綺麗ですよ。」
「そうかしら。」
飾りも仕上げも上々にようです。(^O^)v
おママの貼り絵を見てくださり、ありがとうございます。