(2020年3月4日 アルツハイマー型認知症の診断から約13年1ヶ月)
*東京大空襲とは
この時期になると,当ブログでは毎年、東京大空襲の特集記事を書いているので、
「あ,チャーコさん、またなのね」
と思われる方もいらっしゃるかも知れません。
でも、どうしても風化させたくないのです。
そして、今も、ウクライナでは爆撃を受けている人が居ます。
戦争における民間人の犠牲を重く受け止めながら、今年も取り組んでみました。
第二次大戦中の1944年秋から1945年に終戦まで、日本の主要都市は殆どアメリカ軍の空襲を受けました。だから、東京だけが特別ではありません。広島,長崎に投下された原爆の被害だって甚大です。
その東京においても、3月10日の大空襲だけではありませんでした。東部西部いづれも終戦まで繰り返し空襲を受けました。
しかし、核兵器を使わずして、一晩で10万人という民間人が焼死するって、なんたることでしょう。未曾有の大空襲だったことは確かです。
東京大空襲の概要としては、下記の総務省のサイトが簡潔で良いと思います。
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_12.html
http://www.soumu.go.jp/main_sosiki/daijinkanbou/sensai/situation/state/kanto_25.html
昭和20(1945)年3月10日未明、現在の台東・墨田・江東区のいわゆる下町地区は、米軍の爆撃機B29による空襲を受け、死者およそ10万人、負傷者4万人、罹災者100万人という未曾有(みぞう)の大被害を被った。東京大空襲と呼ばれるこの空襲は、夜間に住宅の密集地を目標にして、約1700トンもの焼夷弾を投下し、根こそぎ焼き尽くすというものであった。
(↓)焼夷弾について書いた記事です。焼夷弾はナフサとパーム油を混合したゼリー状のナパーム剤が焼夷剤として装填されていました。
*浅草公会堂にて
毎年、東京大空襲のあった3月10日の前後数日間、浅草公会堂1階ギャラリーで「東京大空襲資料展」が開催されています。因みに入場無料です。
私は毎年日程のチェックはしていました。しかし、コロナ禍で中止をした年があったり、自分の予定と合わなかったりして、今年初めて足を運びました。
今年の会期は
浅草公会堂 1階ギャラリー
2023年3月9日(木)〜3月12日(日)
午前10時〜午後5時
ガイドが案内してくれる「浅草戦跡めぐり」は
11:00〜/12:00~/13:00~/14:00~です。
私は3月9日12:00からの『浅草戦跡めぐり』に参加しました。
*浅草戦跡めぐり
私は台東区民だし、浅草寺は何度も参拝しています。しかし、ガイドさんのお話は知らないことが多かったです。とても勉強になりました。
忘備録的にまとめてみます。(記憶力が悪いので帰宅後に浅草寺のHPで補完しました。)
◎何度も来ている浅草寺ですが、私は二尊院の近くにある「平和地蔵尊」や満洲引き上げの最中に亡くなった方々を慰霊する「母子地蔵尊」は今まで見ていなかったです。
「母子地蔵尊」のデザインは満州からの引き揚げ経験のある漫画家ちばてつやさんだそうです。(1997年平成9年建立)
◎浅草寺境内の建物で焼け残ったのは「伝法院」「二天門」「浅草神社」。それ以外は本堂もろとも全て焼失。
(↓)奇跡的に焼け残った二天門です。元和4年(1618)に建立。
◎今はお馴染みの雷門は慶応元年(1865年)の大火で焼失していたので、東京大空襲の時はなかったそうです。再建されたのは昭和35年(1960年)でした。
◎明治期の仲見世は洋風の煉瓦造りだったそうです。モダンですね。しかし、関東大震災で壊滅し、大正14年に鉄筋コンクリート造になりました。それも東京大空襲で外構えを残して焼け落ちたそうです。
*淡島堂
私は浅草寺へ行くと本堂にお参りしてから、興味のある戦災樹木を見て周り、そのまま帰ってしまいます。
だから本堂に向かって左側の淡島堂はいつもスルーしていたから、全く知識がありませんでした。
淡島堂は東京大空襲で焼け落ちた本堂の代わりとして、本堂再建まで「仮本堂」だった❗️(↓)
淡島堂の境域には「浅草大平和塔」と「戦災供養菩薩」があるのですが、
私が驚愕したのは淡島堂に向かって左手にあるずんぐりとした物体です。
青銅製の天水桶。(↓)これです。
銘文を読むと、最初は明和七年(1770年)に奉納されて、文政四年に再建されたらしい。
ガイドさんから
「浅草寺の御本尊は東京大空襲の時にどうしていたか知っていますか?」
と問われて、私も含めて参加者全員、沈黙しました。
浅草寺御本尊の観音様は、昭和18年に御厨子ごとこの青銅製の天水桶の中に納められ、本堂の地下深くに埋められました。そして、東京大空襲の戦禍を免れたのです。
つまり御本尊を空襲から守り抜いたのが、この地味な天水桶でした。
戦跡巡りは新な気付きも多く、参加してよかったです。
*展覧会会場
展示は戦時中の暮らしを偲ぶ資料や、被害を伝える写真パネル、体験者の絵による証言などで構成されています。
私が一番気になったのは(↓)このケースです。
写真はガラスケースによって光っていますが、左端にあるには焼夷弾です。
私が実物を見たのは、初めてだと思います。
ゼリー状の油脂に火がついて飛散した状態を考えると、私は鳥肌が立ちます。
極めて消火が難しく、建物も人も焼き尽くす、忌まわしき焼夷弾❗️
右側に観音様の絵がありますね。「防空壕内呪文札」ですって。(^◇^;)
防空壕内に貼っていたのでしょうか。
「弾除 観音」だそうです。軍国調の文言が並んでいますね。
きっと町内の誰かが御札を頂いてきたのでしょう。
「どこのお寺のお札なんだろう?」
ヒントは御札にちゃんとありました。「相模寺尾」「御助観音」で検索❗️
(↓)こちらだと思います。
太平洋戦争中は「弾除け」のご利益のために、東京からも参拝する人が多かったそうです。
東京東部から神奈川県綾瀬市寺尾まで、現在でも結構遠いです。当時だったら尚更でしょう。それでも、このお札を求めた。その人々の不安や危機感、そして無事を祈る姿を想像すると切ないです。小さいお札だけど、庶民の心を支えた観音様だったのでしょう。
*3年前の自分と答え合わせをした
私は3年前に、戦災樹木を探して、浅草寺境内を1人で歩いていました。
私は樹木の専門家ではありませんから、参考書籍はあったけど、手探り状態でした。
(これは戦災樹木かな?)
と思っても、書籍やネットの情報で確認が取れない樹木も多かったです。
そのため、当時のブログ記事では、確証が持てないものは作成した地図上に印だけ付けて、写真は掲載しませんでした。(↓)
しかし、今回、展覧会会場で
『1945年3月10日に東京大空襲で被災した浅草寺境内のいちょう分布図
(東京大空襲犠牲者追悼・記念資料展実行委員会)』
というカラープリントを頂きました。
それを見ながら3年前の自分と答え合わせをしました。
当時,写真を撮影しながら「これかな?」と思ったものは、ほぼ正解でした。
今回(↑)この改訂版の地図とともに写真を掲載します。
すべて、2020年2月から3月に撮影した写真です。
今回、新に撮り直そうかと思ったのですが止めました。何故なら、2020年の写真には殆ど人物が写り込んでいないからです。当時はコロナウイルスが流行し始めた頃。
「不要不急の外出は避けて」という状況のために、浅草寺は参拝者がとても少なかったのです。台東区民の私としては、浅草はいつも賑わっていてほしいです。撮影しながら、とても悲しかったけど、写真資料的には良かったと思います。
そして、今年2023年3月9日、
「浅草戦跡めぐり」のガイドさんに、鎮護堂にも戦災樹木があると教えて頂きました。
今年、新しい写真も撮ることができました。
本当にありがとう御座います。
今回、「浅草戦跡めぐり」をしている時、浅草は沢山の人で賑わっていました。
若い人達もとても多いです。
楽しげに観音様にお参りして、美味しそうなものを食べて、買い物して、本当に平和な姿だと思います。
平和が一番です。
彼らは78年前にここが焼夷弾で丸焼けにされて、大勢の人々が焼き殺された事も、
そのすぐ目の前にある大銀杏が、空襲の傷跡を抱えながらずっと生きてきた事を、知らないでしょう。
私は、東京大空襲を風化させたくないという思いが半分、
そんな彼らの楽しそうな笑顔が嬉しいのも半分です。
多くの人が浅草公会堂の「東京大空襲資料展」に足を御運んで欲しいです。
そして、今現在の平和が永く続きますように。
そう観音様にお祈りして、浅草を後にしました。
(↓)過去の東京大空襲シリーズです。
*本日アップの貼り絵
3年前の2020年3月4日の作品です。
今回、2020年3月頃の戦災樹木の写真データを探していたら、思いがけずブログにアップしていなかった作品が見つかりました。
この頃はまだ、私が「お題」を机の上に出しておくだけで、おママは作品に取り組んでいました。私の居ない時に制作された作品なので制作風景の写真はありません。
(↓)「お題」はこれでした。
元は広告冊子の写真を切り抜いたものです。(↓)
(↓)2020年2月21日に写真を切り抜いた紙片を使って、おママは数枚の貼り絵を制作しました。
(↓)関連作品です。
おママの貼り絵を見て下さり,ありがとうございます。