(1990から2000年ごろに装丁か)
*今年ようやく
毎年、3月のひな祭りを過ぎてから気がつくのです。
「あ、ブログで『三月ひなのつき』を紹介し忘れた❗️」
昨年までなら、おママに自分で開いて持ってもらって記念撮影もできたのにね。
おママは40代から革工芸を習い始めました。その最初はアメリカンクラフトカービング、そして50代後半から60代にかけて熱心に学んだのは革を使ったヨーロッパの伝統的な装丁技法ルリユールでした。
色革の表面を微妙に削って凹ませ、そこに薄く削いだ別の色革を埋め込む「モザイク」。
革の表面にコテで抑えながら凹みを付け、そこへ金箔を施す「工芸金箔」。
この2つの技法に取り組んでいました。
短期の講座を受講しながら、同好の士とグループを作り、共に制作したり、グループ展を開催しておりました。
姑の介護も終わり、娘達は世帯を持ち、夫のジジは定年を過ぎても第二の人生で仕事に邁進していました。
おママの人生の中で、この時期は最も充実した時代だったと思います。
*ルリユールとは
「ルリユール」はフランス語です。意味はヨーロッパの伝統的な製本技法。
映画かドキュメンタリーなどで、ヨーロッパの歴史ある名家の書斎を見た事があるでしょうか? 書斎の壁面全体を覆い尽くす蔵書の全てに、その家独自の装幀を施されているのです。上等な皮革の上にはキラキラ輝く金箔で文様や紋章が入っている…。
想像するだけでも、ウッっとりするほど美しい本たちです。
ヨーロッパでは16世紀にグーテンベルグの印刷技術が普及して、本の出版は盛んになりました。
その頃は出版と印刷、製本の職分がはっきり分かれていなかったので、職人間で権利の間の揉め事も多かったそうです。
そこで1686年にルイ14世が「パリ市では出版、印刷の2業者と製本業者はお互いの職分を超えてはいけない」という御触れを出したとか。
以後、本は仮綴の状態で販売され、購入者は好みの製本屋にそれを持ち込んで製本してもらうというスタイルが定着していたそうです。
そうなると、富ある者は豪華な蔵書にしますね。そこまで上等にしなくても、自分オリジナルの装幀になるのですから素敵ですね。当時の人々にとって、今では考えられないほど、本は愛着のある貴重なものだったはずです。
本がおしなべて愛蔵本であった時代、ヨーロッパで培われた伝統製本技法がルリユールです。
参考にさせていただきました。⬇️ ありがとうございます。
今回の『三月ひなのつき』は以前ブログでご紹介した『星の牧場』や『影絵とお話』より以前の作品だと思います。
何故なら、かつておママが私にこれを見せてくれた時、近眼の私はまじまじと目を近づけました。するとおママは悲鳴のような声をあげたのです。
「こらーーー❗️上手くできなかったから、細かいところまで見ないでよ❗️アラが目立つじゃないの。」
今回写真撮影をするにあたり、一つ一つのモザイクと箔押しの部分をかなり接写したのですが、おママに悪いような気がして、その写真は掲載を控えました。
私からしたら充分すごいのですが、ご本人の評価はまた別ですもの。(^◇^;)
(↓)見返しに使った紙が登場してます。
『三月ひなのつき』の題名部分は活版印刷の活字に熱を加えて金箔押しをしています。活字を作っている業者さんに特注で作ってもらっていました。
*おママと『三月ひなのつき』
おママは『三月ひなのつき』がとても好きでした。
「この母さんとおひな様の話が、私と子供の頃に持っていたおひな様に重なって、心に沁みるのよ。」
そう言っていました。
奥付を見ますと、おママは1964年8月以降にこの本を手にしたのだと思います。年齢はだいたい31歳。姉のオネコは3歳、私チャーコが生まれる2年前でしょう。
三月ひなのつき
初版 1963年12月1日
著者 石井桃子
挿絵 朝倉摂
1964年8月15日 2刷
私が中学生くらいの時には、この本はもう古びて装丁も痛んでいました。きっとおママは何度も手にして読んだのだと思います。私はその頃に1度読んだのですが、全くピンときませんでした。(^◇^;)
でも、今回読み直して、印象が少し変わりました。
あらすじをかいつまんでお話ししますとこうなります。
おそらく時代は昭和30年代初頭でしょう。世の中は高度経済成長へ向かう頃。
主人公のよし子は10歳。前年に父を亡くし、今は洋裁でオーダーメイドの服を仕立てる仕事をする母と2人暮らしです。
よし子はおひな様を持っていませんでした。それはお母さんが空襲で焼失してしまったお雛様が忘れられなくて、新しく買う気持ちになれなかったからです。
このお話に出てくるおひな様は、今で言うところのコンパクト収納が可能で、持ち運びも楽で場所を取らず、しかも構成は御内裏様とお雛様、三人官女,五人囃子、右近左近、丁子に調度品が全て備わった段飾りです。一つ一つが小さくても丁寧に作られていました。今考えても、確かに素晴らしい。
これは父親の仕事で日本各地を転勤しながら暮らしていく孫娘(よし子の母)のために、お祖母さん(よし子にとっては曽祖母)が職人さんに頼んで誂えた雛人形でした。
作られた時代は大正末期から昭和の初め頃でしょう。特別上等な物ではなかったけど全てが木彫で、そのどの部分をとっても手仕事をきちんと積み重ねた品々でした。祖母が孫娘を思いながら職人さんと話し合いながら作ってもらった逸品です。
よし子は初めて「お雛様が欲しい」という自分の気持ちを母に向け、そしてお母さんも娘の気持ちを受け止めて,改めて「おひな様」に向き合っていきます。
使う人、手に取る人をしっかり考えて、どの工程も疎かにはしない手仕事の大事さ。それを信条に仕事をする母の気持ちとよし子への愛情が、物語の肝なのだと思いました。
ルリユールは正確な手仕事を積み上げて成立する技法だと思います。
この『三月ひなのつき』を最初に手にした時、おママはまだまだ子育てが忙しい時期でした。自分が人生の後半でそんな技法に取り組もうとは想像できなかったと思います。
でも、そんなおママだからこそ、この物語が余計に心に響いたのでしょう。
そして、ボロボロになった『三月ひなのつき』を自分の手で装丁し直したのだと思います。
(↓)朝倉摂さんの挿絵も素敵です。
*おママのおひな様
祖母(おママの母)から聞いた話ですが、おママの初節句に祖父が用意したのは
「御殿飾りだったのよ。」
なんじゃそりゃ?
「御殿の建物の中にお雛様や三人官女や他の人形が居るのよ。」
(↓)こんな感じだと思います。これも素晴らしい手仕事によるおひな様でしょう。
それで、そのおママのお雛様はどうなったのでしょうか。
祖母の話は続きます。
「実はお雛様は別のところに疎開させてたから焼けなかったの。」
一家は疎開先でも東京の家も空襲で丸焼けになって、衣類も家財もほとんど無くしてしまったのにね。
「それで、道具屋に頼んで買い手を探してもらったわ。ただし、分厚い上等な緋毛氈だけは除くのが条件だったのよね。道具屋ったら『緋毛氈のないお雛様なんて売れない』って言ってたけど、ちゃんと売れたわよ。進駐軍のお偉いさんがお土産に買って帰ったんだってさ。終戦直後は暮らしが大変だったけど、あのお雛様は本当に役に立ってっくれたわ。」
「で、その緋毛氈は?」
「上着に仕立てたけど赤じゃね。でもね、フキコの女学校のお友達が染め物屋さんの娘さんなので、黒く染め直してもらったの。だって、真冬に上着なしで女学校には通わせられないじゃない。」
立派な御殿飾りの雛人形は丸ごと活用できたとさ…。
祖母は楽しげに笑いながら昔話をしていましたけど、
当時のおママにしてみたら、思い出の特別なお雛様を失くしたのです、悲しかったでしょう。
しかし、後年、おママはオネコの初節句の時に買った真多呂の雛人形がとても気に入っていました。
おママとおひな様の思い出は、まずまず、幸せだったと思います。
(↑)昭和36年ジジ撮影。初節句のオネコを抱く祖母。背景に真多呂の雛人形が写っています。(再掲載です。)
(↓)これも再掲載、一昨年のイラストです。
おママのルリユール作品を見てくださり,ありがとうございます。