(2017年7月18日 アルツハイマー型認知症の診断から約10年5ヶ月)
暑中お見舞い申し上げます。
私は連日の猛暑で干からびそうです。
いえ、猛暑でなくても、既に干からびたオバサンです。
もうこれ以上熱波に当てられても、干物のような旨味は出ません。
このまま炎熱のコンクリートジャングルで朽ち果てるのは口惜しい。ええ悔しい。
頼むから、早く秋が来ますように❗️(°_°)
*「今月のイチ押し❗️リターンズ❗️」とは
おママが特別養護老人ホームに入所したので、もう、新しい貼り絵作品は生まれません。
昨年まで、「月末企画❗️今月のイチ押し❗️」は当ブログの月末恒例行事でした。
オネコと私は「イチ押しミーティング」をして、特に印象に残る作品を選んできました。
それはすぐに意見が一致することもありましたが、紛糾する(大袈裟です)こともしばしば…。
しかし、それも出来なくなりました。寂しいものです。
「今月のイチ押し」は今見ても素敵な作品が多いです。当時を思い出して、今、感じることもあります。
そこで考えたのが「リターンズ❗️」。
6年間72枚の中から、私が特に好きな作品を再びご紹介する企画です。
*裏のメモ書き
今回は2017年7月版の「イチ押し」を振り返ろうと思います。
当時,なぜこの貼り絵を「イチ押し」に選んだのか?
どちらかと言うと大人しくてサッパリとした作品ですね。毎月選ぶ「イチ押し」作品としてはインパクトが乏しい。
それは、裏面に珍しくおママのメモ書きがあったからです。
自分で書いた文章ですが、私は6年前の事などさっぱり忘れておりました。
読み返してなるほどと思いました。
「パパと2人で作りました。」
おママはそう書いていたのです。
しかし当時の記事にはその写真が掲載されていませんでした。
それで昨日(7月31日)に実家でもう一度この貼り絵を確認してみました。
拡大してみますと、
認知症と診断されてちょうど10年の頃、おママが一生懸命に書いた文字です。
6年ぶりにおママと再会したような(大袈裟ですね…)気持ちになりました。(๑˃̵ᴗ˂̵)
実際にデイサービスでジジと2人で作ったのは折り紙の「風船」だったのですが、
デイサービスで頂いた折り紙を使ったので、そんな風に思ったのかもしれません。(^◇^;)
一緒に作ったのは折り紙ですが、
きっとおママも嬉しかったのでしょう。それが貼り絵の裏の
「パパと2人で作りました」
というメモ書きになったのかも知れません。後日、写真を撮る時に
「お父さんと一緒に作ったの?」
とおママに聞いてみたら…。
「やっていたらお父さんがやって来て、なんのかんの言っていたのよ〜〜」
と言っておりました。あ、そうなんですか……。
まるで覚えているかのような仰りようです。覚えているのか?
当時のジジは、貼り絵をしているおママを見ながら、あれこれアドバイス(?)をしていましたから、こんな2人の様子は今でも目に見えるようです。
*「パパ」とは誰のことですか?
因みに、このメモ書きの「パパ」はジジの事で間違いありません。
しかし、2017年当時、おママは家族の存在や家族構成を忘れて始めていました。
(↓)実際に、2017年秋や冬には、ジジを父親だと言っていましたから、
おママにとっての「パパ」は夫ではなく、「実父」だった可能性も高そうです。
「お兄ちゃんは?どうしたっけ?」
おママのお兄さんは10年くらい前に亡くなっています。この話題は何度となくジジとおママの間で交わされ、このブログでも取り上げてきました。だがら、おママは漠然とした諦めは付いているのです。
「死んじゃったんだっけ?」
「そうだよ。随分前にね。」
「そうか…。じゃぁ、あなたは誰なの?」
「田中太郎だよ。あなたは自分の名前は分る?」
「う〜ん。トモヒサ…。トモヒサ…。何だっけ?」
トモヒサはおママの旧姓です。
「あなたは田中芙貴子ですよ。」
「そうか……。タナカフキコ…。」
腑に落ちない様子です。それで、おママはジジとの関係性を知りたくなったのでしょう。「それで、私はなんなの?」
「あなたはね〜、私の嫁さんですよ!」
「えぇ〜〜〜‼️」
おママは驚愕。こんな時、おママはたいていジジよりかなり若い気になっているのでしょう。目の前にいる齢89歳のジジが夫とは思えなかったのかも知れません。
*衝撃の告白
この日のジジはとても疲れて身体が重かったのです。だから、シルバーカーをおママの渡すわけにはいかないし、
そして、果てしもないリピート問答に耐えられない気持ちになりました。(溜息)
「ほら、お父さん❗️」
としつこく言われて、ちょっと言ってやったそうです。「いったい私をなんだと思っているんですか?」
おママは迷わず答えました。
「お父さん。」
「じゃあ、あなたはなんなんですか⁉️」
おママは一瞬考えてから答えました。
「娘です。」
「………………。」この日、ジジは決してシルバーカーを放しませんでした。
おママは第二次大戦の最中、まだ国民学校(1941年より尋常小学校を改称)の児童だった時に、父親を病気で亡くしました。
しかも仕事に忙しい人だったから、父親との思い出は少なかったようです。
だから、長い人生を共に歩んだジジの存在の方が大きかったでしょう。
認知症になってからは、父親と思っても不思議はないかもしれません。
でも、今となっては「夫」でも「父親」でも、どっちでもいいですね。(^O^)
「パパと一緒に作りました。」
きっと、これを書いた時、おママは幸せな気分だったと思うから。(๑˃̵ᴗ˂̵)
おママの貼り絵を見てくださり,ありがとう御座います。